【太秦】 事務所の有る京都市右京区辺りの大昔はというと、大雨の時には氾濫する桂川の下流域で比較的平坦な土地なので、農作物を作る人達が古くから住んでいたそうです。 その右京区に「太秦」という地名があり、読み難いのですが「うずまさ」と一度覚えてしまうと記憶にしっかり残りました。 そしてその名前は「帰化人」の「秦氏」からついた地名であることも。 7世紀の初めに中国へ遣隋使が送られ、9世紀後半までは遣唐使がそれぞれ中国から当時の先進的な文化芸術宗教などを、学んで持ち帰ったと習いました。 しかしそれよりかなり前から朝鮮半島との交流も多くあり、百済などから朝鮮中国の文化もたくさん入って来ていたそうです。 農業や養蚕、製鉄や陶芸など当時の最先端技術をたくさん学んで吸収していったのだと思います。 また優秀な技術者や職人、当時の優秀な学問を収めた人の中には日本に渡って来て、人びとから尊敬される指導者になった人も多いと思います。 やがて生活の基盤をすべて日本に置き、日本に「帰化」する人も増えたのでしょう。 そのような中で「秦氏」も帰化人として平城・平安時代を通じて、日本の発展の為に大きく尽くしてくれた人達でした。 元々は百済出身の一族であったそうです。 桂川(大堰川)の治水工事を進めて、田畑の土地の活用と安定を図り、商工業を盛んにしたとの事です。 嵐山の渡月橋の辺りから、大堰川の両岸近くを仕切って幅3~4mの流れの小川が始まります。 右岸の川は、松尾にかけて農業用水として利用し、松尾神社の境内にも流れています。 左岸の川が大きくて流れも速く流れています。 元々は、丹波から材木などの物資を川を使って運んできて、この嵐山に堰を作って一部の水流を東に導く水路に流し、堀川通りなど京都市内の川へも流れて行くようにしました。 【渡月橋下流から西方の写真:右側が流れのはやい水路です】 三条通りにかけては、材木などの溜まり場が有り、大きな都の材木需要を満たしていて、それゆえ今でも木材関係の会社が多い場所です。 話は少し変わりますが、事務所のある西京極に流れる「天神川」は川幅が狭いのに深さがとても深いと思いませんか? 私が子供のころ見た風景にも、西京極に染工場が多くあり、染め上げた着物用と思う長ーい反物を天神川で職人さんが水にさらしていました。 見下ろすような下にある川底を見て、ずっと不思議に思っていました。 最近偶然読んだ本に、1935年に鷹峯あたりから流れる紙屋川が氾濫して、大きな洪水被害を京都市内にもたらせたことが書いてありました。 紙屋川~天神川と北から南へ流れる川は天井川だったのを、洪水対策として低く掘りなおしたのです。 それで新しい天神川は、多くの水量を下流に流せることのできる深い構造にしたと。 また西から東に流れる、材木などの運搬に使っていた水路の上を流れていた天神川を、作り変える時に水路も廃止したようです。 【天神川三条の写真:上(南側)で流れ込んでいるのが、嵐山からの水流。 手前で少し流れ込んでいるのは、本来は京都市東方へ流れる水路】 京都では秦氏は、この右京区の葛野から物集女~向日市にかけてと、もう一つは伏見区に大きな拠点が有ったそうです。 伏見稲荷神社も、秦氏が大切にした守り神だと言われています。 秦氏の発展の為に良かったことは、直接政治に係る事は避けて農業や商業に力を入れたので、長く良い関係が維持できたのかもしれません。 また宗教についても、日本に従来からあった宗教を大事にして、新しく来た仏教とも共存するようにした事も良かったことでした。 また、九州から中国地方、そして北陸まで一族が広範囲に分かれて住み、いろいろ有益な影響力を広げました。 日本の天皇は平城宮の後、長岡京から平安京へと秦氏の影響力の強い土地に、新しい都を作って行きました。 平城京から遷都した桓武天皇の生母は、百済から渡来してきた女性と言われていますので、新しい文化と帰化人への強い親しみも有ったのかもしれません。 いずれにしても、毎日仕事をして来たこの場所辺りも、多くの人が切磋琢磨して営みをして来た永い歴史のある場所です。 【私の誤解が有れば、ご存じの方は指摘して教えてください】 投稿ナビゲーション カジュアルフレンチFCバルセロナ 3件のコメント 関連する新聞記事が有りました。2枚 返信 京都新聞の記事です。 返信 jpgでの記事です 返信 コメントを残す コメントをキャンセルメールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目ですコメント ※ 名前 ※ メール ※ サイト 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。 Δ Optionally add an image (JPEG only)